出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択▽検証!200年前のロシア危機~露寇事件 松平定信3つの意見書[字]

江戸後期、ロシア軍艦が蝦夷地各地を襲撃する事件が起きた。通商を要求してのことだった。このとき意見を求められた前老中首座・松平定信の3つの献策から幕府の選択に迫る

詳細情報
番組内容
文化4年(1807)夏、江戸幕府が震撼した。蝦夷地各地にあった幕府の出先がロシア船に襲撃されたのだ。ロシア使節レザノフの通商要求を幕府が無下に拒絶したことがきっかけだった。幕府守備隊は反撃もできずに敗北、無力ぶりをさらす。通商に応じなければ更なる攻撃を行うと予告もあった。このとき意見を求められたのが前老中首座の松平定信。残された3つの献策からは、事件が幕府の対外政策をいかに変えたかが浮かび上がる。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】京都大学教授…岩﨑奈緒子,哲学者・津田塾大学教授…萱野稔人,ノンフィクション作家…大島幹雄,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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  17. 選択
  18. 襲撃
  19. 前触
  20. 意見書

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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今から およそ200年前

蝦夷地と呼ばれていた
北海道周辺の島々に

突然 異国の船が姿を現す。

ロシア船は
カラフトやエトロフ島などにあった

幕府の出先を 次々と襲撃。

略奪や放火を繰り返した。

いわゆる露寇事件である。

事の発端は
通商を求めてきたロシアの申し出を

幕府が 無下に拒絶したこと。

その報復は 江戸幕府始まって以来の
外国からの攻撃となった。

慌てた幕府は 東北の諸藩に命じ

蝦夷地に 3, 000の兵を派遣。

防衛態勢を取る。

その一方で ロシアにどう対応するか
一人の人物に 意見を求めた。

かつて ロシアとの交渉に
関わったことのある

元老中首座
松平定信である。

定信は こう書き残している。

「ロシアという国は
ヨーロッパからアジアへかけて

皆 属国としている
世界にならびなき強大な国なり」。

定信は 3回にわたって
意見書を出し直している。

次々と 新たな事態が
明らかになってきたからだ。

まずは ロシアの攻撃の詳細と
幕府守備隊の情けない戦いぶり。

それが 世間に知られてしまい
一気に 幕府批判が高まってゆく。

まさに内憂外患。

この危機に どう対応すべきか。

定信が 最後に記した対応策とは!?

スタジオでは
さまざまな分野の専門家が

新たな視点で 露寇事件を徹底検証。

蝦夷やカラフトに 興味を持ち始めて

占領 そして植民化っていうふうに
興味を持つんじゃないかと。

ペリー来航のおよそ50年前に

日本を大きく揺るがした
露寇事件の顛末をたどる。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回取り上げるのは こちらの事件です。

今から およそ200年前に起きた
露寇事件です。

当時 蝦夷地と呼ばれていた
北海道と その周辺に

突然 ロシアの軍艦が現れ
幕府の出先を 次々と攻撃しました。

露寇事件 磯田さんは
どういうところに注目していますか?

これね
ものすごく大事な事件なんですよ。

長く続いた平和な徳川幕府が
初めて経験した他国との紛争なんですよ。

みんなね 教科書とかで
ペリー ペリーって言うんですよ。

ペリーより
ずっと こっちが重要なんですよ。

そうなんですか? だから ペリーより
こっちが有名じゃない

今の状況なんて おかしいんですよ
本当は。

それほどですか?
はい。

それがあって 日本の近代化っていうのは
大きく動いていくわけです。

ですから そういった意味でね
ロシアと日本の関係って

日本のターニングポイントに
なることが多い。

日本近代の
大きなターニングポイントになるのを

今日 詳しくやるんで
これは見た方がいいです どう考えたって。

じゃあ その露寇事件とは
どんな事件だったのか

まずは そこから見ていきましょう。

時は 11代将軍 徳川家斉の御代。

江戸では 華やかな文化が花開いていた。

ところが 文化4年6月。

はるか北方から
江戸幕府を揺るがす知らせが届く。

ロシアの軍艦が
蝦夷地にある幕府の出先を

襲撃したというのだ。

外国船による日本への攻撃
蒙古襲来を思わせる大事件であった。

舞台となったのは
蝦夷地の北東に位置する エトロフ島。

報告によると この年の4月29日

ロシア船2隻が
エトロフ島のシャナに 姿を現した。

シャナには 幕府の施設が置かれ

箱館奉行所の役人と
弘前 盛岡の藩兵が駐屯 警備していた。

この時 幕府役人は
戦う意思がないことを示す白旗を掲げ

穏便に交渉を行おうとする。

しかし ロシア兵は
上陸すると すぐさま銃撃を仕掛けてきた。

弘前 盛岡藩兵も銃で応戦。

だが 艦砲射撃まで繰り出してくる
ロシア側の圧倒的な火力の前に

防戦一方となり 戦意を失った指揮官は
ついに撤退を命令する。

ロシア兵は倉庫にあった
食料や武器 金びょうぶなどを奪い

施設を焼き払って去っていった。

この時 捕虜になった

盛岡藩兵 大村治五平の手記が
残されている。

大村は 襲撃のさなかに捕虜になり
ロシア船に連行される。

その際に見聞きしたことを
絵を交えて 詳細に記録している。

ロシア船は 大型の大砲を4門装備。

水兵たちは
口径の大きい鉄砲を携えていた。

更に大村は 手記で

日本の守備隊が敗走する様子を
記している。

「ロシア人が上陸すると
警備の者どもは 鉄砲をかついで

皆 山中に逃げ 姿を消してしまった」。

7月 幕府に新たな知らせが届く。

6月初め ロシアの攻撃に対抗するため

武器を積んで 蝦夷地北部の宗谷に
向かっていた幕府御用船が

利尻島沖で ロシア船に襲われたのだ。

大砲や鉄砲 食料が奪われ
船は焼かれてしまった。

そして 6月5日
利尻島で 日本人捕虜が解放される。

彼らは ロシア側からの手紙を
持たされていた。

「せんだってお願いした
ロシアとの通商の件

承知しなければ
大軍をもって 北国筋を占領する」。

一連のロシア船の襲撃は
単なる海賊行為ではなく

ロシアが 国家として
行ったことが分かったのだ。

武力で脅かして通商を求める。

あからさまな脅迫であった。

今回も
さまざまな分野の専門家の皆さんに

お越しいただいています。
よろしくお願いいたします。

蝦夷地で 大変な事件が起きましたが
少し整理しておきます。

こちらの地図 ご覧ください。

最初の襲撃は 文化3年 1806年9月
ロシア船が カラフトを襲撃します。

そして 翌年4月から5月にかけて
エトロフ島のナイホとシャナを襲撃。

日本人を捕虜にします。

更に 5月から6月にかけて
カラフト 利尻一帯を襲撃。

そこで 日本人捕虜を解放。

幕府宛ての書状を託しました。

まずは この露寇事件の研究をされている
京都大学の岩崎さんです。

よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。

あの ロシアの襲撃は 江戸幕府にとって
どれほどの衝撃があったんでしょうか。

とんでもない
ショックだったと思います。

江戸時代というのは
武士が支配する軍事政権なわけですね。

徳川将軍家というのは
武力で他を圧倒することによって

支配を確実なものにしたと。

日本史の分野では
武威というふうに言うんですけど

武力の武 それから
威圧するの威ですね。

それが
外国に負けてしまうわけですから…

大変なショックだったと思います。

更に それに加えて言えば
海から攻撃されたと。

他国から攻撃されたという点が
非常に大きいと思いますね。

いわゆる鎖国といわれるものは

日本が 外国との貿易を管理するために

国を閉ざした
ということだけではなくてですね

近隣の朝鮮とか 中国とも

お互い 海を通じて
例えば 過度な干渉はしませんよと

軍事的な介入
しませんよということで

もう成り立っていたわけですよ。

ロシアからの攻撃というのは

海の秩序の安定というのを
脅かすわけですよね。

そういう衝撃も
あったんじゃないかと思いますね。

大島幹雄さんは
当時のロシア側の事情を

よく調べていらっしゃる
ということですが

当時 ロシアは どんな国で

日本が通商しないと攻めると
言ってきていることについては

どのようなことを感じますか。

この時代は
あの例のナポレオンを撃退した

アレクサンドル1世の時代なんですね。

当時 ロシアはですね 東というか

北を向いていくわけですね
どんどん どんどん。

オホーツク たどりついて
しかも この時代になると

アラスカまで行ってるわけですね。

特に何かっていうことは毛皮なんです。

みんな毛皮が目的で ロシアは

どんどん どんどん北へ行くわけですね。

当時 イギリスもアメリカも
やっぱり毛皮 狙ってましたから

それと しれつな争いをしながら。

今度 とった毛皮を 売り先を
考えなくちゃいけないわけですよね。

つまり 今度は
アジアに目を向けなくちゃいけない

ということがあったわけですね。

ロシアにとっては
日本との通商というのは

非常に大事な時代だったと
言えると思います。

当地の軍事力っていうのは
どれぐらいのものだったんですか。

レザノフという人が
1804年に 長崎 来てるんです。

彼が 日本との想定問答を
メモで作ってるんですけども

それによると…

やっぱり
大変な軍事力を持ってるってことは

間違いないと思います。

磯田さん それに対して
日本の軍事力っていうのは…?

いや もう古いままですよね。

実は 東京大学史料編纂所だったと
思いますけど

ロシアのサンクトペテルブルグの
博物館にある武器を

どうも日本のらしいっていって
調べてみたら

これ 露寇事件の時に ロシアが鹵獲した

要するに とっていっちゃった
武器だということが分かったと。

それで その内容を見てみたら まさに

戦国時代のまんまだったって
いうんですよ。

それは じゃあ やっぱり
最新兵器を持っているような国には

かなわない?
通用しません。

萱野さん どう考えます?
この… 比べると。

徳川時代の日本と比べると

当時のロシアって
全然 正反対なんですよ。

要するに
戦争ばっかりしてるわけですよ。

あの18世紀… あのロシア帝国が
出来ていく過程でもですね

例えば スウェーデンと
ずっと戦争をするとか

あるいは プロイセンと戦争するとか
オスマン帝国と戦争するとかいう形で

ず~っと戦争をしてるんですよね。

戦争をしていれば もちろん敵がいて

より軍事力 高めなければいけませんから
イノベーション どんどん起きていって

当然 もう黙っていても
軍事力 高まっていきますよね。

さあ その露寇事件ですけど
なぜ じゃあ そもそも起きたのか。

これ 実は
いきなり起きたわけではないんですよね。

事の起こりは 十数年前に遡ります。

エトロフ島襲撃から15年前の寛政4年

蝦夷地 根室の沖合に
1隻のロシア船が来航した。

乗っていたのは ロシア皇帝
エカチェリーナ2世の使節である

陸軍中尉のアダム・ラクスマン。

ラクスマンは 松前藩を通じて
幕府に 書状を提出する。

日本人漂流民の返還を理由に
直接 江戸に赴きたいという要求である。

この時 対ロシア外交に臨んだのが
老中首座 松平定信であった。

定信は ラクスマンに
蝦夷地の松前に回るように求め

そこで 返答書を渡した。

「国交なき異国の船は

打ち払うのが 古よりの国の法
定めである」。

まず 国の定めとして
ロシア船の江戸行きを拒否。

一方で 譲歩も行った。

定信は ラクスマンに
長崎の入港許可証を与えた。

長崎に行けば
通商の可能性があると示したのだ。

その背景には
定信のロシアへの強い恐れがあった。

定信が ロシアを知った書物がある。

仙台藩の医師が書いた
「カムサスカ国風説考」。

それには アフリカから
アジアまでが描かれた

世界地図が収められている。

その中で ひときわ目を引くのが

赤い枠で囲われたロシアである。

ヨーロッパから シベリアを経て
オホーツク海沿岸まで

広大な領土を持つロシア。

更にロシアは 勢力を拡大。

千島列島を南下し始めており

日本は 蝦夷地を挟んで
大国 ロシアと向き合っていたのだ。

この地図を見た時
定信が抱いた危機感を

日露関係史を研究する
谷本晃久さんは こう分析する。

定信は ラクスマン来航に際して
こう記している。

戦いになれば勝てない。

定信は ラクスマンに 通商を望むなら
長崎に回るように伝えることで

紛争になることを回避したのだ。

しかし ラクスマンが
長崎に現れることはなかった。

ところが ラクスマン来航から12年後
長崎に ロシア船が姿を現す。

その時の様子を描いた
絵巻が残されている。

長崎湾を警備する福岡藩 佐賀藩 大村藩の
船の前に現れたのは

巨大なロシア船 ナデジダ号であった。

目的は 通商の要求。

彼らは 定信がラクスマンに渡した
長崎入港許可証を携えていた。

代表者は
ロシア使節 ニコライ・レザノフ。

ロシア皇帝 アレクサンドル1世の
侍従長という貴族だ。

そして もう一つの顔を持っていた。

当時 ロシアは アジアから
更に北米まで 勢力を伸ばし

交易を行う国策会社 露米会社を設立。

レザノフは その総支配人でもあった。

露米会社は
上質なラッコの毛皮を求めて

東へ東へと進み
アラスカにまで進出していた。

しかし 入植地の
カムチャツカ アラスカは

寒冷地のため 食糧不足に苦しんでいた。

後に 入植地の現状を
レザノフは こう記している。

入植地の問題を解決するには

最も近い日本で
食料を手に入れるしかない。

レザノフは 日本との通商を
強く願って 自ら赴いたのだ。

レザノフは ラクスマンが
長崎入港許可証を与えられたからには

通商は許可されると信じていた。

しかし 知らせを受けた幕府上層部は
レザノフの上陸を拒否。

24時間の監視体制を敷く。

2か月半後 レザノフは ようやく
上陸を許されるが

陸の上でも軟禁状態に置かれる。

住まいの周りは 壁で厳重に囲われ

周囲との交流も許されないまま
半年が過ぎる。

ようやく 江戸から来た役人と
面談がかなったのは よくとしの3月。

レザノフは かごに乗せられ
長崎奉行所に向かい

日露会談が行われた。

しかし 幕府の役人は

レザノフが持参した国書も贈り物も
受け取りを拒否。

けんもほろろの回答を言い渡した。

「我が国が国交を結んでいるのは
朝鮮と琉球

通商を行っているのは
オランダ 中国のみ」。

「速やかに 日本から去れ」。

これが 半年の軟禁の末の
答えだった。

レザノフは 日記にこう記した。

なぜ幕府は ラクスマンの時とは
全く違う対応を行ったのか?

ラクスマンに
長崎入港許可証を与えた松平定信は

この時 老中を退き
対ロシア外交には関与していなかった。

当時の幕閣は 老中首座が戸田氏教

レザノフ担当は 老中 土井利厚。

レザノフは 滞在記に
親しくなった通訳から

この対応は 老中首座の戸田氏教が
反対しているからで

戸田が政権を去れば 通商交渉は
可能になると告げられたと記している。

一方 老中 土井利厚から
対応について諮問を受けた

大学頭 林 述斎の記述によれば

「丁寧に対応して
交易をお断りするのが

よかろう」と申し上げたが

老中は「粗略に扱えば

腹を立てて
二度と来ないだろう」と

無礼な対応を
とることにしたという。

通商を拒否されたレザノフは
やむなく カムチャツカに帰るが

怒りはおさまらなかった。

露米会社の入植地の苦境も
深まっていた。

レザノフは
武力で 日本を脅そうと決断。

部下に こう命じる。

こうして 露寇事件が始まったのである。

う~ん 大島さん。

ず~っと ロシアと日本は
すれ違っていますね。

そうですね。
ね。

本当は ラクスマンが
信牌を持って帰った時に

彼らは 貿易許可証だとばっかし
思ってたわけですね。

入港許可証が。
そうですね。 すぐに

もう日本に行く手配をしてたんです。

その後を継いだ
息子のパーヴェルっていうのが

お母さんのやっていることは 全部
反対のことを やればいいというぐらい

大嫌いだったんで それで
もう完璧に途絶えてしまったんです。

それで もう12年もですね
時間がたってしまうわけですね。

あそこで 12年もかけずに
割とすぐに 日本に来ていたら

もしかしたら その通商の余地も…。

だから もう本当に
日露関係の一番 原点で

大きな入れ違いがあったなというのは
あの2つ… この歴史を

振り返れば振り返る度に
思うことですね それはね。

そのラクスマンの時は
その通商を認める余地が

あったと思うんですけど
レザノフの時は拒絶する。

老中首座であった松平定信が

その時は老中じゃなかったっていうのも
あると思うんですけれど

なぜ幕府は これほど
対応が変化したんでしょうか。

…ということが挙げられます。

ラクスマンが来航したあとに
イギリス船が室蘭沖に来てるんですね。

室蘭から 津軽海峡を横断して
日本海に出ている。

大騒ぎになっています。
幕府も すぐ調査隊を派遣する。

つまり その太平洋岸で

何か知らんけど いろんな国の船が
チョロチョロ チョロチョロ出てくる。

えっ これ 何やろう? と。

この人たち 何で来はんの?
みたいな感じで

研究をするわけですね 蘭学者たちが。

分かったことは何だったかって言うと…

そういう理解を
日本側の人たちは するわけですね。

レザノフが来た頃の日本人は。

で その時に…

ケンペルという
オランダ商館のお医者さんで

17世紀の末頃に 日本に
長崎にいた人なんですけども

その方が 本国に帰られたあとに

日本についての
大きな本を書くんですね。

で 「鎖国論」で
何が書いてあるかって言うと

要するに ケンペルは 江戸時代の初めから
日本は 国を閉ざしてます。

それなのに
とっても平和で とっても豊かで

とっても安定した国を実現してますと。

すごく珍しい国ですっていう
そういう報告をしてるんですね。

で その本が翻訳をされて それで
幕閣が 読む環境が整った時に

彼らは う~んって思ったと思います。

何でかって言ったら…

そうすると いろいろ出てきてる
イギリス船とか そういうところが

あっ そうなんだ。 やり方変えたんだ。

じゃあ うちも! なら うちも!
っていうふうに来るかもしれないと。

次から次へと。

ところが レザノフの段階になると
知識が増えてますから

だから ロシアのことだけ考えたら駄目で
ヨーロッパの動きを

念頭に置きながら 踏まえながら
対応しなきゃいけなかった。

だから 選択肢が ちょっとこう
狭まっていったというのは

そういうことなんだろうと思いますね。

ここね とっても大事なとこで。

今 研究の最先端のところで これが。

ヨーロッパ側が 日本を
どのように認識してたのか

日本の政策担当者は
ヨーロッパに対して

どの程度の知識を
持ってるかっていうのが

ここの… 平成の終わりぐらいから
すごい進んだ。

だから ヨーロッパは
非常に正確に 日本を認識し始め

日本側も
ヨーロッパが 何をしようとしてるか

各国が 我々に近づいてきて
何をしようとしてるか分かってくる。

そこで出てきたのが
鎖国っていう2文字の熟語なんですよ。

国を閉ざす 鎖国。

まあ翻訳したのは 志筑忠雄という
長崎の翻訳担当の人ですけど。

もう 一回 鎖国を
日本はしてきたんだと言いだしたら

いや 権現様は 家康は
絶対 鎖国なんかしてないんですけど

権現様からしてきたんじゃないかと。

代々 祖法だと。 昔からだと。

そうすると 先祖がやってきたことを
変えるってことになると

最大の罪っていうのが まあ基本的に
前近代の社会の在り方ですし。

それと 先ほど出た話ですね

ヨーロッパが
「うちも! うちも!」になっちゃったら

オランダ以外の国に対しても
いろいろ やんなきゃいけなくて

ややこしくなると。

やっぱり これは
国は閉ざさなければいけないという

逆に…

この段階に入るわけです。

そうか。 鎖国っていうのを
より意識しちゃったんですね。

もう これは本当 やっぱり
植民地化されるかもしれない危機

というような感じの
受け止め方だろうと思いますね。

いや でも その通商を
幕府から拒絶されたレザノフは

部下に 日本への攻撃を命じますが
これ 大島さん

何で 軍事圧力をかければ 通商ができると
ロシアは踏んだんでしょうか。

6か月間 レザノフがいた時に
まあ特に 首脳会談が

うまくいかなくなった前後からですね

長崎の通詞たちがですね
いろんなことを 事情を話し

打ち明け話を話すんですね。

…という話とか持ちかけるわけですね。

これ いろいろと事情聞いてると…

要するに…

これは 大前提としてあるっていうのは

もう これを100%
レザノフは信用してしまったと思います。

要は 日本は 民衆は貿易を望んでいる。

だけど 幕府は それを反対している。

だから その反対してるという気持ちを
揺るがすには ちょっと脅かしてやれと。

特に レザノフの場合には 間違いなく

最後の彼の滞在日記なんか読んでると
やっぱり…

でも萱野さん この刺激が

すぐ その軍事圧力というところに
なってしまうっていう点については

どう考えますか。

時代を考えれば
当然だろうなと思いますね。

やはり最終的には 武力が秩序を作る

あるいは 自分たちの要求を通す
手段なんだという意識は

もう中世から ずっと
ヨーロッパには根づいていますし。

とはいえ…

こういうことをされたから
こっちは 軍事力に訴えるんだ

武力に訴えるんだっていうような議論は
ず~っと積み重ねられているんですよね。

その点で言うと やはり ちょっと
日本は 無礼な対応をし過ぎたというか。

長崎への通行許可証を
持ってきたにもかかわらず

あれぐらいの冷遇をして
無礼な対応をすれば

もう怒って 二度と来なくなるだろう
っていうような判断をしたのであれば

ロシアからすると
十分 正当性はあるだろう

ということになったと思いますね。

さあ こうして
ロシアからの攻撃を受けた幕府ですが

どう対応すればいいのか
一人の人物に意見を求めます。

蝦夷地襲撃の知らせを受けた幕府は

直ちに 東北の諸藩に
蝦夷地に兵を出すよう命令。

弘前 盛岡 秋田 庄内

4藩の3, 000人の兵が
蝦夷地に赴いた。

兵は 箱館や宗谷 斜里など

海岸線の要所に配置され
ロシア船の攻撃に備えた。

この危機にあって
幕府が 意見を求めた人物がいる。

かつて ラクスマンに対応した
あの定信である。

このころ 老中首座が

定信の腹心である
松平信明に代わっていた。

そのため
定信に 意見を求めたと考えられる。

市の図書館に 定信が
3回にわたって提出した

意見書の草稿がある。

4巻に分けられているが
スタジオの岩崎教授の研究で

実は 3つの文書であることが分かった。

最初の意見書の日付は 6月15日。

エトロフ襲撃の知らせが
幕府に届いて間もなくの頃である。

「エトロフ島に ロシア人がいれば
厳しく打ち潰し

海辺へ
ロシア船が来たら

激しく攻撃して
焼き捨てにし

幕府の武威を示した上で

蝦夷地への
狼藉の理由をただし

その回答次第で
対応を決める。

通商を求めてのことなら

後々の問題に
ならないように

議論を尽くせ」。

第2の意見書は 7月2日付。

解放された日本人捕虜が持たされた
書簡から

通商を承知しないと
更に 攻撃を加えると

ロシアが脅迫してきたことが判明した
その直後である。

「武威を示した上で 通商に応じる。

実力行使は
エトロフより先の島々

2~3島に行う」。

第1の意見書では
武威を示す場所が

日本の勢力圏の
エトロフだったのを

ロシアの支配下にある
島々への攻撃に改めている。

ロシア領にまで踏み込んで
攻撃しない限り

武威を示したことにならないと
考えたのだ。

その理由を 定信はこう記している。

「長崎で 丁寧に頼んできた時には断り

侵略すれば願いがかなうでは

ロシアだけでなく
ほかの外国からも

日本の武威が
軽蔑されてしまう」。

侵略されたので 通商に応じるとなれば

日本の国威が揺らぎ
ロシア以外の国からも

軽蔑されてしまうと考え
ロシア領への攻撃を提言したのだ。

武威さえ示せば
通商を認めてもよいと考えていた。

だが 事態は急変する。

蝦夷地で ロシアに惨敗。

幕府が隠していた事実が
世間に知られてしまったのだ。

あまりに ふがいない負けっぷりに
憤慨した 箱館奉行所の役人が

その様子を 手紙で
江戸に知らせたからだった。

更に 利尻島沖で
幕府御用船が ロシア船に襲われた時

幕府の役人たちが 戦うことなく
船を捨てて逃げたことが明らかになった。

幕府の兵が 戦わずして逃げた。

江戸市中では こんな狂歌が詠まれた。

ロシアに いかに対抗するか
幕府の権威を いかに回復するか。

2つの問題に直面した定信は
3つ目の意見書を書き始める。

かくなる上は 何が何でも
ロシアを攻撃して 幕府の武威を示し

謝らせなくてはならぬ。

ロシア側の島に軍勢を送り ロシア人を
捕虜にして 謝らせるのはどうか。

それを広く知らせれば
幕府の武威も回復

その上での通商なら
日本にも得るものがあるであろう。

だが 本格的な戦争になれば
とても かなわない。

うまく 交渉に持ち込めるだろうか。

いいや もはや通商うんぬんなどと
言っている場合ではない。

この際 新たな外国との通商を
一切拒否することを

徹底する方がいいのではないか。

この度の事態で
幕府の武力は 大したことないと

誰の目にも明らかになってしまった。

そんな幕府を 誰が偉いと思うか。

権威まで失われれば
幕府が この日本を治めることさえ

疑わしく思われるであろう。

それは 幕府が終わることだ。

だが 通商要求を拒むためには

仮に攻撃されても 跳ね返せるだけの
守りの強化が必要だ。

やれやれ 金のかかることよ。

松平定信に 選択の時が迫っていた。

さあ ロシアとの紛争に対応し
かつ 幕府批判を収めるには

どうすればいいのか
松平定信は 選択を迫られます。

皆さんが 松平定信の立場だったら
どちらを選択するでしょうか。

まず岩崎さんは どちらを選択しますか。

はい。 私が定信だったら 2番。

通商不可 外国徹底排除を
選びます。

まあ 定信の本音は
通商をしてもいいんじゃないかという

方向なんですけれども 定信は
8代将軍 徳川吉宗の孫なんですね。

吉宗のひいおじいちゃんは
家康なわけです。

つまり 幕府を中心とする…

で 一方 この事件を通じて
先ほどの手紙にもあったように

幕府が とてもひどいことになっていると。

敗北しているということが
風聞が渦巻いてるわけですね。

幕府 何しとんねん!
みたいな そういう雰囲気が出来ている。

だから もし この上で
さんざんなことになったあげくに…

もう到底 維持できなくなる
ということで

どうしても
おじいちゃんたちが 先祖が作った

そこは もう維持しないといけないので

なので 絶対拒否っていうふうに
なるだろうと思います。

大島さんは いかがでしょうか。
はい。

私は 武威を示して通商を認める
という選択を

するんじゃないかなと思います。

やっぱり 長崎で
レザノフが来た時に

あまりにも失礼な対応を
してしまったから

起きた事件だということの
認識を持ってれば

確かに もちろん 武威を
示さなくちゃいけないっていうのは

つまり 国内的なそういう風評に対して
やっぱり 負けっ放しじゃなくて

ある程度… 軍事力の差は
歴然としてるわけで

それは多分 定信も
もちろん 知ってることなんで

あくまでも…

やっぱり もう一度 通商を
認めるっていう前の前提として

もう一回 リセットして
いわゆる 外交っていいますか

交渉をしなくちゃいけないというふうに
私だったら 定信は

そういうふうに判断するんじゃないかな
というふうに思います。

萱野さんは どうでしょうか。

私は 2の
通商不可 外国徹底排除を選択します。

この段階では
もはや 通商を認めてしまうことは

あの やはりロシアが
先に 攻撃をしてきて

そのあと いくら武威を示したとしても

結局 通商を認めるんだ
ということになりますから

各国からの要求が
一気に増えるおそれというのが

非常に高いんですよね。

内政的にも 相当 今
幕府の威信 落ちてますから

通商を認めた瞬間に いかに
それ以前に 武威を示していたとしても

もう権威が落ちる方向に 国内世論的にも
いくんだと思うんですよね。

だから それを考えると もう…
今の幕府のラインとしては

通商は
絶対に認めないんだという立場に

立たざるをえないだろうな
というふうに思います。

磯田さんは どちらでしょう。

僕は 2にします。
通商不可 外国徹底排除。

僕ね ロシアがね 通商をやって
通商に とどまってくれればいいんですよ。

ですけどね 通商に とどまらないんじゃ
ないかと思うんですよ。

通商をやってるうちに だんだん…

露寇事件の時に…

だから そういう関心が ゼロだったとは
言えないんではないかなと思いますね。

そこを こう…。

なるほど。

なるほど。
さあ 松平定信の選択

どちらだったのか見ていきましょう。

文化4年8月3日。

松平定信は
3つ目の意見書の草案を書き上げた。

「最初は 武威が立って
ロシアが謝罪すれば

通商を認めようとも考えていたが

いろいろ風説を聞くと

御用船が襲われた時の逃亡など

まるで
武威が立たない。

これでは
異国だけでなく

国内の取締りさえ
危うくなる。

通商を許すことは
決して あってはならない」。

定信は 通商不可 外国徹底排除を
選択したのである。

この年の末
幕府は ロシア船打ち払い令を出し

徹底対決の方針を示す。

幕府は 新たに
秋田 庄内 仙台 会津の4藩に

兵を出すよう命じる。

兵は クナシリ エトロフ 宗谷 カラフトを
中心に配置され

ロシアの攻撃に備えた。

4年後の文化8年 クナシリ島に
ロシア軍艦の艦長 ゴローウニンが上陸。

ゴローウニンは捕らえられ
松前に送られて 取り調べを受ける。

そこで ロシア側の襲撃は
皇帝の許可なく行われたこと

更に レザノフは
命令を撤回していたにもかかわらず

部下が暴走したことが判明。

ロシア側の謝罪文が届けられたことで
ゴローウニンは釈放される。

かくして
江戸幕府を震撼させた露寇事件は

一応の決着を見る。

決着から4年後。

松平定信は 露寇事件の経験を踏まえて
こう記している。

露寇事件をきっかけに 鎖国は
幕府始まって以来の決まり事として

強く意識されるようになる。

この後 ペリーの黒船が
力で こじ開けるまで

日本は 外国との新たな通商を
始めることはなかった。

松平定信は 選択2の
通商不可 外国徹底排除を選びました。

この露寇事件での
一連の松平定信や幕府の対応

後の歴史に どういう影響を
与えたのかっていう話も

ちょっと聞いていければと
思うんですが。

幕府は 天文台に 蛮書和解
外国語の本を翻訳する係

それから 地図御用
世界地理を勉強する 研究する係。

そういうものを置くんですね。

で 世界情勢を研究していく。

オランダ語に限らず さまざまな言語を

学んでいくっていうようなことを
始めていて。

だから ヨーロッパに対する理解。

今の私たちから見ると 近代に向けた
明治維新に向けた準備ですね。

そういうものが始まっていったと。

そういうことが言えると思います。

レザノフが連れて帰ってきた漂流民
日本の漂流民 4人が

大槻玄沢って 時の洋学者から
聞かれたことに

「環海異聞」っていう本が
出てるんですけども

これが…

そういう時間を
与えてもらったということも

一つ あると思うし。

50年後にですね。
ペリーが来航するわけですけども

最初は こう小さな前触れで

それが 後の大きな秩序の転換を
もたらすような出来事に

結果的になってたわけですよね。

同時期に ちょうど
フランス革命なんかも起きてて

ヨーロッパでも
本当に大きな政治体制 あるいは

軍事体制の変革が
起きてるわけですよね。

露寇事件というのは
まさに その前触れだったんですけど。

それを
インパクトを受け取るだけではなくて

いや その先に どんな秩序が
ありうるのかということを

やはり 考えていく必要が
あるだろうなというのが

この事件の教訓なんだろうなと
私は思いますね。

面白いのは 定信がですね
2つ目の意見書の中で

あの~… 1国に もし
通商を許してしまったら

ほかの国々が
確かに来るかもしれない。

だけれども…

だから ロシアも隣国なのであるから
そことの関係を結ぶっていうことで

そのヨーロッパに対する
…の影響に対する回避の方法が

あったんじゃないかっていうようなことを
書いてるんですね。

で まあレザノフがいた時の
外交担当者たちが

そういう方向性を検討したのかどうかと。

もう何か そこら辺が やっぱり
不十分さというか 未熟さというか

そういう部分がある。

国と国との間を
平穏に 安全に維持するには

やはり 外交っていうものの大切さ
っていうのが

強く感じるところですね。

さあ磯田さん
今日は露寇事件について学びました。

なかなか 教科書では語れないような話が
ふんだんにあったなと思うんですけど。

こういう歴史議論がやりたいんです
僕はね!

先ほどね 萱野先生が 前触れということを
おっしゃってくださって。

これは大事なことで
必ず歴史には 前触れがあると。

ただ その前触れを受け止める側のことを
考えなきゃいけない。

前触れを生かす場合もあるし
生かさない場合もあると。

2つの反応が起きますよね。

強い西洋はいい。 強い科学を持ってる。

あの合理主義はいい!
という姿。

この2つの反応となって

後者は 攘夷という形で
もう なっていきます。

この攘夷思想って 本当に最後まで

「大和魂!」とかいうような
この考え方ですね。

これは本当に なくなるのかっていうと
実は…

だから 前触れが起きて
僕らが 何かを反応した時に

それを冷静になって それは本当に
後世 通用するものであるのか

長い視点で冷静に考えるってことも
前触れ時期。

今 僕は ひょっとしたら
前触れ時期なんじゃないかと

思ってるんです。
この令和の最初の日本というのは。

冷静に考えるべきだと思いますね。

皆さん 今日はありがとうございました。

Source: https://dnptxt.com/feed

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