出典:EPGの番組情報

徹子の部屋 鷲尾真知子[解][字]

~5年前に急逝した夫への想いを…~鷲尾真知子さんが今日のゲストです。

◇ゲスト
73歳で今でも舞台やドラマなどで活躍している女優・鷲尾真知子さんがゲスト。
◇番組内容
夫で俳優の中嶋しゅうさんが急逝して5年。50年近く苦楽を共にしてきた夫だけに、喪失感はいまだに大きいと明かす。仲の良いオシドリ夫婦だった2人。今回は、生前に中嶋さんが海外からお土産で買ってきたという木箱を紹介。簡単にフタを開けることのできない細工をされた箱だが、むしろ開かないままでいいと鷲尾さんは言う。また、女優志望だったというユニークな母や、芝居の師匠だった賀原夏子さんの思い出も語る。
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
 http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/

ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)

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  14. NLT
  15. 芝居
  16. 初日
  17. お母さん
  18. お亡くなり
  19. フフフフ
  20. 客演

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

(黒柳)こちらは約50年前

20代の頃の今日のお客様です。

今でも 舞台 ドラマなどで
活躍していらっしゃる

鷲尾真知子さんです。
どうぞ こちらへ。

はい。

どうぞ お座りください。
はい。

失礼致します。
どうも。

しばらくでした。
しばらくです。

ご主人の中嶋しゅうさんが
突然 お亡くなりになって

5年という事で

改めて 今のお気持ちなども
お伺いしたいと思いますけども。

まあ お元気で?
はい。 まあ 半分元気です。

まあね。
はい。

非常にお若く見えますけど

一応 73歳でいらっしゃいまして
女優さんで。

高3から劇団…
高3って高校3年生からですね。

劇団NLTに参加して
女優業をスタート。

最近では 朝ドラの
『カムカムエヴリバディ』で

主人公のおばあさん役を
やっていらっしゃる。

はい。
そうですね。

さて コロナ禍の中での生活は

まあ ご主人が亡くなってから
1人住まいで

家事をなんとかこなしている毎日。
そうですね。

何しろ 主人がおりました時も

「もう 真知子 うるさい」って
言われるぐらいに

要領が悪いんですね。

家事の段取りが悪いから
2階から下に下りてきて

「あれ? なんで 私
下に来たんだろう」

って忘れて また上がって
「ああー あれだった」

と思いながら
また 取りに来たり。

なんか そんなんで
一日中…

あっという間に
終わってしまいます。

そうですか。 お子さんは
いらっしゃらないんですけど。

今の写真は ご主人です。

お友達が手伝いに
来てくださるんですって?

ええ。
中嶋がロンドンで知り合った

40代の…
今 お嬢さんなんですけれども。

その方が 本当に
彼が亡くなった その日から

本当に 私のそばに
いてくれたというか…

いてくれたんです。
それで 今も ご結婚なさって

ちょっと 東京でない所に
行っているんですけれども

彼女も仕事があるもんで
東京に出てきて

その時は私と一緒に同居して…。
あっ そう。

色々 力になってくれています。
そう。 ありがたいですね

そういう方 いらしてね。
そうですか。

ご主人は同じNLTの
中嶋しゅうさんという…

69歳でお亡くなり…。
69歳でした。

そうですか。 5年前に。
はい。

まあ 突然
亡くなったんですけど。

黒澤映画などにも
色々 出ていらした

名脇役で
いらしたんですけども。

50年近く励まし合い
生きてきたご主人で。

5年前に舞台の上で
倒れたんですって?

そうなんです。
初日だったんです。

えっ。
初日の舞台中に

倒れて そのまんま…
意識戻らず 逝ってしまいました。

急性大動脈解離
っていうのですって。

でも 予兆はあったんですか?

いや… 本人は 何かあったのかも
しれませんけれども

私には
全然そういう事は見せないで。

その日も 私も舞台を…。

ちょうど
舞台稽古だったもので。

「じゃあ 行ってくるね。
じゃあ 初日 頑張ってね」

って言って
家で別れて まあ…。

そのまんまですか。
それっきりで。 はい。

そうですか。
でも その次の日は

あなたは
舞台稽古だったわけだから

次の日が初日で。
はい。

気丈に
舞台には立ったんだけども

なんか あんまり
記憶がないんですって?

その時の。
もう なんにもないですね。

ただ なんで 私
こんなつらい事を

しているんだろうっていう事は

ものすごく実感として
その時あった その思いは今も

すごく強く
持っているんですけれども。

ただ 今 こうやって
私が仕事をさせて頂いているのは

その時に背中を押してくれた
うちの社長とか

お友達がいたからこそ
今 こうやって 私

まあ お仕事をさせて…。

今日も こうやって
黒柳さんとお目にかかれる事が

できていると思っております。
なるほどね。

なかなか気持ちの整理なんて
つかないもんでしょうね

きっとね。
もう 最初は

黒柳さんが「お元気ですか?」って
声をかけてくださって

なんか 「はい。 元気です」
っていうのは

やっぱり ちょっと
ウソになっちゃうかなと思って。

突然だったもので
やっぱり いまだに

どこか ポコーンと
心に穴が開いているみたいで。

「ただいま」って
彼の声が聞こえても

きっと なんの不思議もない
っていう自分と

あと 5年の歳月が…
自分の仕事が

ああ これと これと これと
これをやったんだなって。

これは
中嶋に見てもらってないな

っていうのと。 だから
本当に なんか 自分が ちょっと

分離しちゃってる部分が…
気持ち的に。

あっ この写真は…。
多分 私のお誕生日ですね。

そうよね。
ケーキがありますもんね。

はい はい。
ふーん。

でも こんなケーキなんか
用意してくださったのかしらね。

二人っきりだったので
お誕生日とかクリスマスは

もう必ず プレゼントとカード。
うわー 優しい。

それは もう 中嶋が
「真知子 今度の誕生日

俺 これ 欲しいから」って
向こうから言ってくるから

「はい。 わかりました」っていう
そういう感じで。

あっ そう。
はい。

まあ そういう中から
なんか 思い出の品というのを

今日 持ってきてくださった
っていうんだけど。

はい。 えーっと…。

2人の思い出というか…。

これ 最後に ヨーロッパに
芝居を見に行った時に

私は仕事で行けなかったんです。

で 帰ってきて
ちょうど亡くなる…

うーんと 3カ月前でしたかね。

若い俳優さんと
2人でヨーロッパ 回ってきて。

それで まあ 各地で

ちょこちょこっと
お土産を持ってきてくれて。

多分 これ オランダかな?

この木箱。

ここに
「To Machiko」って…。

書いてあるの見えますね。
見えますか?

彫ってもらったんだと
思うんですけれども。

「これね 真知子ね 秘密の箱でね
なかなか開かないんだよ」

って言うんですよ。
「だから ここに大事なもの

入れておいた方がいいよ。
だからさ ちょっとね

あれ? あれ? 駄目だ。
忘れちゃった」って言って。

開け方が?
開け方が。 だから 結局

開いてないんです 一回も。
秘密の箱なのね。

そうなんです。 それで

「はい」っていって このまんまで
それで 中嶋は天国行っちゃって

で いまだに開いてないんです。

中に ちょっと なんか
入ってるみたいなの?

(箱を振る音)

入っているみたいね なんか。
なんだろう? 入ってるか

なんか… なんかの…
なんだろう?

フフフフ…。
でも 結局 開かないんです。

36年前にね
あなた おいでになった時に…。

随分前ですけども。
はい。

36年前に お母様についても

お話しして
くださっているんですよ。

そうですか。
ちょっと それ 見せて頂きますね。

「母がね 好きだったんですね」

「私を産んでから
俳優座の養成所に入ったんです」

「これは 母も年をごまかして…
上で ごまかしたんですよ」

「年いっているのに

ごまかして入ったの」
「あなたをお産みになってから

俳優座の養成所に
お入りになった方」

「女優になってみようかな
っていう事で」

「その辺のいきさつ はっきり
まだ問い詰めてないんだけど」

「だけど それは 低くごまかして」
「だから そう」

「それでね
お母さんが3年間 通って」

「私を産んですぐだから
3つか4つですよね」

「反抗期になって
暗い子になっちゃったの」

「それで」
「お母さん いないから」

「お手伝いさんに育てられてね

私は愛されてないなんて
思ったんですよ きっと」

そうだったの?
そうなんですね きっと。

なんかね 電車にね 乗っかってね
追い掛けたらしいですよ。

あっ そう。
それで 母はショックを受けて

新橋駅… 横須賀線で

新橋駅まで
ずっと立って行って

それで そこで
気が付いたみたい。

それで ショックで
それで辞めたみたい…。

そうだったの。
かわいそうな事しました。

でも 奇麗な
お母様だったもんね。

ちょっとね
女優になりたい…。

それから
勧められたりもしたかもしれない。

下にいる可愛い子は
あなたなんでしょ?

そうなんです。
なんですかね…。

あんな…
あんな子でした。

可愛い。 フフフフ…。
そうですか。

でも 随分 習い事なんかも
させられたんだけども

全部 それもなさったんですって?
あなたは。

そうです。 やっぱりね 母は

昭和元年… 大正14年の
生まれだったので

やっぱり 自立した人間に
なってほしいっていうのが

いつも あったみたいで。

女性だからっていうんではなく
やっぱり なんか

年関係なく… 年 男女関係なく
仕事をしてほしい

っていうのが
すごく望みだったみたいです。

それで やっぱり
何か身につければ

いいのではないかというので

バイオリンやったり
ピアノやったりさせられました。

それで 最終的に
日本舞踊をやって

「これが 一番 真知子には
合っている」と思って。

それで 日本舞踊を ずっと

高校卒業する
ちょっと手前ぐらいまでやって

それで NLTっていう…。

でも あなた あんまり
日本舞踊は好きじゃなかったの?

いや… 嫌いではないんですけど

すっごい
厳しい先生だったんですよ。

ええ 大変。
本当に怖かったんですよ。

フフフ…。
ただ やっぱり… 今 思えば

私には とても
すてきな時間だったし

それをやって頂いた事は
感謝しております。

なるほどね。
はい。

でも とにかく それは…。

とにかく…
舞踊家になろうとは思わないで

女優になったのは
それは やっぱり

お母様のためっていう事
あります?

そうですね。 それで やっぱり
踊りを極めるっていうのは

やっぱり お師匠さんになって

人様にお教えするぐらいかなと
思って。

だったら やっぱり 板っていうか
舞台が好きだったので

じゃあ 母の勧めもあって
高校卒業したら どこか養成所。

だから
NLTの養成所を受けました。

へえー。

でも お母様は
あなたが女優になって

NLTになって
役があったりすると

見にきてくださった?
もう 大好きでした。

舞台稽古が好きで。
ええー。 珍しいわね。

珍しいんですよ。
初日はもちろんなんですけれども

「舞台稽古 行って大丈夫?」
っていうのを…。

「じーっとしていれば
大丈夫じゃない?」って言って

後ろの方の席で
座ってるんですよね。

それで 「お母さん 飽きないの?」
って言ったら

「なんか すごく この劇場の空気が
私は好きなの。 だから…」。

どこの劇場だったんですか?
それは。

例えば 紀伊國屋…

あの当時やったのは
紀伊國屋とか…。

俳優座?
俳優座とか… そう。

そういう所だったと思います。
あっ そう…。

でも 晩年の3年間は
介護生活になって

あなたは ご主人と
本当に一生懸命…。

そうなんです。 発病して

3年間
闘病しましたので

その間 やっぱり
入退院があって

大変だったんですけれども。

性格もそうですし
見た目も違うので…。

なんかさ
社長さんみたいね。

母は 私の事を

「私は あなたを
本当に産んだのかしら?」

って言うぐらい
違っていたんですよ。

失礼しちゃうわね。
失礼しちゃうんですよ。

でも 母がいなくなって
中嶋が

「真知子は おばさんに
似てきたね」って

最後 言ってました。

だから やっぱり
似ているんだと思います。

そう。 でも 随分ね

柄も なんか
大柄の方みたいに見えて。

そうですね。
割合 体格は良くなって。

若い頃は細かったんですけれども
割合 体格は良くなって。

なるほど。
はい。

でも とにかく 10年前に
78歳でお亡くなりになった。

はい。
そうですか。

今だったらね
もっとね 長くね みんなも…。

そうですね。

本当に 病院で
亡くなったんですけれども

「真知子 あと2年 生きたい」
って言ってました。

あっ そう。
80までって 多分…。

うん。
その日が最後だった…。

でも 最後まで
やっぱり 教師っていう…

先生っていう感じ
だったんですって?

はい。 私 子供がいないので
こういう仕事しているから

っていう事だけじゃ
ないんですけども。

母親が子供に思う
無償の愛っていうのが

自分は 実体験
できないんですけれども。

母が本当に弱って
体力もなくなった時に…。

で 病院でも 母が

ものすごく わがままになる
瞬間なんかに

やっぱり かばってあげる
っていう事が…。

初めて
それを私が体験できたんです。

それまでは ずっと
母が私のサポート。

全部 かばってくれて
いたんですけれども。

母が病気を得て
私が立場が逆転して

初めて あっ 人を守るって
こういう事なのかな

弱者を守るって
こういう事なのかなっていうのを

母が教えてくれた
っていう気がしました。

そうですか。

もう一人の先生っていうと
やっぱり 賀原夏子さん?

そうです。 徹子さんも
ねえ よくご存じの。

劇団NLTを
お作りになった方ですけど。

まあ この方
いい方でしたね。

いやー 怖かったです。
あっ 怖かった?

怖かった。
ただ 享年70って…。

そう。 すごく若いよね すごく。

私 若かったんだな 先生
と思って。

うん…。

ちょっと 賀原さんの
VTRがあるので

ちょっと 『徹子の部屋』に
お出になった時の

見て頂いていいですか?

「今日のお客様は 劇団NLTの
主宰者でいらっしゃいまして

映画 テレビ 舞台の
名バイプレーヤーでいらっしゃいます」

「喜劇の演出も 大変 いっぱい
なさっていらっしゃる」

「いいえ。
まあ どういうわけかね…

私 レッスンするつもり
なかったんですよ」

「それで… ただ お金がね
劇団でなくなっちゃったし

それから 偉い先生にお願いする
っていうのは

申し訳ないっていうので」

「それで しょうがなくて
やり始めたら

やっぱり 面白いですね。
そしてね 私 やっぱり

その方が合ってるんじゃないか
と思うんですけれども」

「でも 大体 役者が

ことに こんな自分が演出する
っていうと

なんか… いい加減なんじゃないか
っていうふうに思われがちでね」

「まあ そういうところがね…」

「私は もう 割り切って
やっていますけども」

でも
『屋根の上のバイオリン弾き』の

一番最初に出てくる…
なんていうの?

ツァイテル?
ん?

ツァイテルおばさんじゃ…。
そう あの…

みんなを めあわせる
っていう役やって

随分 面白かったですよね。
ええ。

本当に 私 最初に
賀原先生の舞台を拝見したのが

あの『屋根の上のバイオリン弾き』
でした。

はい。
そう。

いやー 今 見せて頂いて
なんだか…。

うん。 ちょっと…。
そうね。

こんな事していていいのかと
思いました。

やっぱり 大人だなと思って。
そうよね。

ええ。

そうだったね。
だって 亡くなったのって

本当に お若い時ですもんね

割と まだね。
70歳っていう事は もう 私

先生よりも 3つも
年取ってしまったのに…。

70… 70だったのね。
70で亡くなられて。

もっと とっても
年上のように思ったけど。

もう 本当に
そう思いました。

私 この劇団NLTの
旗揚げの時に

出させて頂いてね。
17歳の役… まあ その役…。

アメリア。
アメリアって『マカロニ金融』でね。

それで とっても…
飯沢先生が演出してくださって。

これ…。
フフフフ…。

これ… 懐かしいね なんだかね。

私は この頃 だから…

前も
お話ししたかもしれないですけど

プロンプとお茶くみ。

そうか。 そういうのだったね
入ったばっかりで。

入ったばっかりで。
でも それをやっていらしたのね。

ずっと これ…。

黒柳さんを
だから ずっと隅っこで

じーっと見てました。

本当? フフフフ…。 そう。

でも まあ 途中で 賀原さんが
亡くなっちゃったのがね。

はい。
なんとも… 残念だわね。

はい。 私がNLTを退団して
先生がお亡くなりになったのが

2年後だったんです。

あなた
先に退団していらしたんですか。

そうなんです。
じゃあ なお ちょっとね。

でもね 賀原さんね
私 ずっと あそこに客演して

『ニノチカ』っていう芝居に
私 出てたんですよね。

そしたら ある日 ちょっと
賀原さんから電話があってね

会いたいからって言って。

それで 行って ご飯…
イタリア料理かなんか

食べてたんですよね
昼間ですけど。

そしたら 「私ね 死んじゃうのよ」
って言うのよ。

それが 本当に初めはね
どこに がんができて

どうとかこうとかっていう話
してたから

ちょっと 私 人の話かと思ったら
そうじゃなくて 自分の話でね。

賀原さんが 「だから 私ね
結局 死んじゃうんだけど

あなた
出ててくれるわよね?」って。

「うちの客演…」。
私 客演っていう形で

出てましたから。
「客演してくれるわよね?」

って言って。
でも 私 「賀原さん だって

そんなご飯も食べてるし
大丈夫じゃない?」って言ったら

「大丈夫なんだけど
そうなのよ」って。

「でも どっちにしてもね
もうじきだから」とか言って。

もう 本当にカラッとして
ウソだって 私 思ったんですけど

やっぱり 亡くなりましたよね
そのあとね。

出ている最中に代役決めて。
ああ そうだったんですか。

あのおばあさんの役でね。

どんどん どんどん おなかが…。

お水が膨らんできちゃってね
大変になっちゃって。

腹水がたまって
大変になっちゃって。

あの頃の事を 私 ちょっと
文章に書いた事あるんですけどね

「ある喜劇女優の死」っていうので。
随分… 本当に大変だったけど

泣き言ひとつ言わずにね
あの方もね。 ねえ。

いやー 本当に…
私 先生より3年も長く

この仕事を
させて頂いているんですけれども

本当に足元にも及ばない
っていうのを

今 徹子さんのお話からも
つくづく感じました。

それで 先生が私に…
頂いた言葉で

さっき 写真に出ていた芝居…

『何をしてたの五十年』
っていう芝居なんですけれども。

あれが おばあちゃんの役で

私が孫だったんですけれども…。

これですね。
ちょうど なんか あそこで

私が話す…

おばあちゃんと2人で
話すシーンがあって。

その時に
賀原先生が

「真知子 どんな芝居
してもいいよ」

「私が全部
受けてやるからね」

って おっしゃったんですよ。
あっ そう。

それで
それが すごく残っているので。

私は本当に そんな…

今 大した役者には
なっておりませんけれども

やっぱり 相手役がやりたい
やりやすいような形で

そこに存在したいなっていうのは

賀原先生の言葉から そう思って
今 役者をやっております。

なるほどね。でも 何しろ
文学座に入った時に

杉村春子さんよりも
年下だったのに

次の日から もう
杉村春子さんのお母さん

やってたっていうんだから
すごいわよね。

ずっと「いつも お母さんばっかり」
って言ってたけど。 ねっ。

でも 『女の一生』でもなんでも
いつも お母さんだったものね

考えてみればね。
そうなんです。

まあ 賀原さんは

いい女優さんでしたよね。
はい。

今でも
舞台に立ち続けている気持ちは

どんなふうですか?
うーん… ねえ。

なんで この仕事を
今でも続けているのかなって

自問自答しても
答えは出てこないんですけれども。

ある先輩に
「役者を続ける秘訣は?」

みたいな事を
若い頃 聞いたんでしょうね。

その時に「どれだけ好きになれるか
舞台が」

って言われたのを覚えていて。

やっぱり いまだに もっと
好きになりたいっていう思いで

続けているんだろうなと思います。
そうですか。

頑張ってください。
はい。 ありがとうございます。

ご主人の中嶋しゅうさんは

今 あなたの事
どう思って見てると思う?

応援してくれていると思います。
そうよね。

また駄目だ。 ハハハハ…。

大丈夫 大丈夫。 今回 大丈夫。
はい。 大丈夫です。

そうですか。
はい。

『徹子の部屋』は

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