出典:EPGの番組情報
NHK地域局発 首都圏情報ネタドリ!▽首都圏から飛び立った特攻隊 最期の1か月[字]
終戦76年。沖縄の海に眠るアメリカの駆逐艦。沈めたのは首都圏で訓練を行った特攻隊だった。若者たちは「最後の日々」をどんな思いで過ごしたのか。日記と証言でたどる
番組内容
終戦76年。沖縄の海底に今も眠るアメリカの軍艦「エモンズ」。航空機による体当たり攻撃を行ったのは日本陸軍の特攻部隊「誠隊」。10代20代の青年36人からなる部隊で、特攻までの1か月間、千葉や群馬の基地で過ごしながら訓練を行っていた。今回、隊員が遺した日記をはじめ、遺族や当時を知る人たちの証言から、彼らが「最期の日々」をどう過ごしたのか見えてきた。語り継ぐべき、戦争に翻弄された若者たちの姿とは?
出演者
【出演】マンガ家…武田一義,【キャスター】岡田結実,松田利仁亜ジャンル :
ニュース/報道 – ローカル・地域
情報/ワイドショー – 暮らし・住まい
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
田中泰臣解説委員でした。
首都圏から南西に
およそ1, 500km。
沖縄県 古宇利島です。
その海底に
76年前の戦争で沈んだ
軍艦が 眠っています。
アメリカの駆逐艦
USSエモンズです。
旧日本軍の特攻によって
大きな被害を受け その後
アメリカ軍自身の手によって
沈められました。
太平洋戦争末期の1945年4月
沖縄戦で日本がとった作戦が
航空機の機体ごと
体当たりする 特攻でした。
この海で特攻を行ったのは
千葉と群馬で訓練をした
陸軍の飛行隊。
将来の夢や希望を抱いていた
いずれも20代の36人です。
特攻を告げられてからの
人生最期の1か月。
どのように過ごしたのか。
新たに見つかった資料や
証言から迫ります。
「首都圏情報ネタドリ!」です。
今夜は特攻隊について
お伝えしていきます。
私も中学の時に
修学旅行で沖縄に行って
特攻隊の方々だったり
戦争の資料を見た時に
中学生なりに いろいろ
感じてはいたんですけど
今 同世代という
同い年になってみて
多くもっと
感じることがありましたね。
また ぜひ本編を見ていって
いただきたいと思いますが
この特攻隊では 最期の1か月を
首都圏で過ごした部隊もあります。
今回 その足跡を
たどってみますと
特攻という
悲惨な作戦を担ったのは
ごく普通の若者たちだった
ということが見えてきました。
特攻隊が
最初に訓練を行ったのは
千葉県銚子市。
戦前戦中 関東に数多く造られた
飛行場の一つが
ここにありました。
特攻の訓練に当たったのは
陸軍の野村 潔中尉。
戦後つづった手記が
残されていました。
出撃のおよそ1か月前の
2月下旬
兵舎の前に集められた
36人の若者たちに
上官から 特攻要員として
選抜されたことが告げられました。
特攻を命じられたのは
陸軍 誠36 37 38飛行隊。
もともとは 戦争の最前線に
出るはずではなかった
若者たちでした。
多くが民間の出身で
特攻隊に編入される前は
飛行学校で
10代の生徒などに向けて
基礎的な技術を教えることが
役割でした。
しかし 戦況の悪化に伴い
全国の飛行学校が閉鎖される中で
突如 特攻要員とされたのです。
特攻の訓練は
銚子に着いた4日目から
始まりました。
野村中尉が 手記とともに
残していた特攻の教本。
求められたのは 超低空水平攻撃と
呼ばれる攻撃方法。
確実に敵の軍艦に
体当たりできるよう
急降下で勢いをつけ
海面ぎりぎりを進む技術で
とても難しいものでした。
「1か月の短期で修得は無理」。
誠隊の中に訓練の様子を
日記に書き残していた人が
いました。
茨城県出身の小林敏男少尉です。
誠隊のうち
37飛行隊 12人の隊長として
共に
特攻することになっていました。
特攻への覚悟が定まっていない
隊員がいるとして
それをまとめる責任の重さを
つづっていました。
小林少尉は どんな思いで
この言葉をつづっていたのか。
都内で暮らす
めいの廣瀬佐智子さんです。
これがですね…
戦後生まれの廣瀬さん。
小林少尉と
直接 会ったことはありませんが
家族からたびたび その人となりを
聞かされていたといいます。
水戸の洋品店に生まれた小林少尉。
地元の商業学校を卒業したあと
世界に飛び出したいと
大阪の商船会社で
働いていました。
廣瀬さんは 小林少尉の
勇ましい言葉の裏には
迷いや恐怖もあったのでは
ないかとみています。
…分からないですね うん。
銚子で1週間ほど
訓練を続けた誠隊。
3月に入り 周辺で空襲が
繰り返されるようになったため
内陸に移ることになりました。
やって来たのが
今の高崎市にあった
陸軍前橋飛行場。
今は田畑が広がっています。
誠隊と触れ合ったという人が
今も健在でした。
当時8歳だった大沢三夫さんです。
誠隊は 飛行機が
空襲で狙われないよう
飛行するとき以外は
地元の竹やぶなどに
隠していました。
大沢さんは この場所で
飛行機の見回りに来た
隊員の一人と出会いました。
その隊員は お礼だと言って
大沢さんを抱き上げ
止まっていた飛行機に
乗せてくれたといいます。
誠隊と数日間にわたって
交流したという人もいます。
当時 15歳の女学生だった
三上登喜子さん。
学徒動員で
近くの工場で働いていました。
ある日 飛行機を見るため
訪れた飛行場で
誠隊から声をかけられました。
三上さんは現在91歳。
電話で取材に応じてくれました。
隊員と仲よくなった三上さん。
その日の夜 家にあった布で
人形を作りました。
特攻の時 一緒に飛行機に
乗せてほしいと考えたのです。
三上さんは 友達と共に
人数分の人形を手渡しました。
5日間にわたって
隊員たちと交流を続けました。
3月20日。
出撃の日が近づき
出陣式が行われました。
このころ 特攻訓練も
最後の仕上げに入っていました。
超低空飛行も
できるようになっていました。
これに前後して 隊員たちは
一時的にふるさとに帰ることが
許されました。
隊長の小林少尉も
水戸の実家に1泊。
翌日 駅で母親と最後の別れを
した時のことを記しています。
息子を
笑顔で見送ったという母親。
しかし めいの廣瀬さんは
戦後 その母親から
別の思いを聞いていました。
ふるさとに帰れない
隊員の中には
近くの民家を借りて
最後の別れを行った人もいました。
地元の中学生だった
木村憲太郎さんです。
ある日の夕方 3人の隊員が
家を訪ねてきたといいます。
…と言った隊員たち。
この場所で1人ずつ
線香をあげたといいます。
出発の朝は晴天でした。
木村さんは庭で
特攻機が飛び立つのを
見ていました。
日記をつけていた
隊長の小林少尉。
群馬で過ごした日々を
こう記しています。
教官の野村中尉は
新たな部隊の訓練を
行うことになり
誠隊と別れました。
終戦から76年。
誠隊の姿は
今も地域で語り継がれています。
正直 資料館に
中学生の時に行った時に
私 大人だから特攻することを
決意できたんだろうなって
正直 思ってしまっていたんです。
けど 同年代といわれる…
私 今年 21になるんですけど
23歳 24歳の方の決意を
今 考えると
VTR見て 何ら私たちと
変わらない同い年の方々が
そうやって 特攻することを
決意せざるをえなかった
したっていうのを考えると
計り知れないなって
改めて この年齢になって
ちゃんと感じれるように
なりましたね。
そして ゲストをご紹介します。
漫画家の武田一義さんです。
武田さんは太平洋戦争の
ペリリュー島の戦いを
描いた漫画が
注目を集めてらっしゃいますが
武田さん
今 どうご覧になりましたか?
あの 本当に痛ましくて…。
すいません ちょっと…。
なんで こんなことをしなければ
ならなかったんだろうと
なんで 誰もやめさせられ
なかったんだろうと。
そういう気持ちです。
武田さんの漫画
こちらなんですけれども
南の島 太平洋戦争で
ペリリュー島で起きた
凄惨な戦争を 漫画で
伝えているんですけれども
終戦から76年がたつ中で
戦争のことを
伝えていく重要性って
どのようにお考えですか?
そうですね 実は僕自身も
伝えるという目的で
描き始めたわけでは
なかったんですよ。
自分の個人的な 知りたいという
気持ちから やり始めたことで。
ただ 知っていくと
これは70年以上前の
昔の話なんですけども
単に昔の話
というだけではなくて
いろんなことが
現代にも通じることであり
現代にも いろんなところで
痕跡が残っていることなんですね。
それを 自分自身が
知ることができて
これは 知る価値のあることだなと
今 思っています。
それが また何か役立つということ
でも あるわけですか?
そうですね 役立つというと
何に役立つのかというと
今の社会というのを理解する。
あと 今も昔も変わらない
人の心の動きであったり
組織や集団の動きであったり
そういったものというのを
昔の歴史から知ることができる。
その辺では 現代に
通じるところがあります。
VTRでもお話があった
地元の方が
さつまいもをあげたり
お人形をあげたら
喜んでらっしゃったっていう話。
なんか 遠いように感じるけど
私たちと
変わらない方々じゃないですか
特攻隊の方々も。
武田さんは
いかが 思いました?
僕もそう思っていて
やっぱり
昔の軍人さんって もっと
遠いイメージがあったんですよ。
ただ 彼らのパーソナル
というところを知ると
とても
今の僕たちと同じで
ふだんは
例えば戦場にいても
戦ってない時間以外は
くだらない
おしゃべりをしていたり
友達と遊んでいたりとか
そういう日常があったんですよね。
それを考えると
本当に 僕たちと
変わらないということで
身近に感じられます。
武田さんの作品から
ご覧いただきたいと
思うんですが
「ペリリュー」という本の中で表現されて
いる部分なんですけれども
戦場とはいえ ずっと戦闘に
向き合っているわけではなくて
こういった いわば
お酒を飲むこともあったりとか
これは 花札をしているような
シーンだったり
こういう 何というか
われわれの通常の生活にも
通じるようなことも
あったということなんですよね。
そうですね。
戦争の戦場であっても
彼らは…
二十歳そこそこの彼らは
二十歳そこそこなりの人生を
そこで送っていたんですよね。
それが 本当に逆に痛ましい。
やはり漫画家としては
こういったシーンを
あえて入れてるみたいな部分も
あるんでしょうか。
そうですね。
戦いばかりを描いて
戦争を描けるとは思っていなくて。
その場にいた人たちの
日常のすべてを描くことが
戦争を描くことだというふうに
思って 描いています。
確かに身近に感じられるね。
雨が降ってきて
体を洗って喜ぶところとかが
描かれてる時に
私も雨が降ったら
喜ぶ時あるなとかって思って。
ほんで それが逆に
ぐっと胸にくるものがあって。
すごく考えさせられてもらえるな
と思います。
皆さんからのご意見
こういったものが来ています。
「特攻隊の生き残りだった
祖父が過ごした
基地跡にある記念館を訪れて
生前に戦争の話を もっと深く
聞いておけばよかったと
後悔しました」ということですが。
終戦から76年で
どんどん当時を知っている方が
少なくなっている現状が
ありますけれども
直接知らない人が 語る
受け継ぐことの意義というのは
武田さん どう考えますか。
はい。
僕が取材をした
戦争体験者の方々も
もう亡くなってしまった方が
多くて。
僕らは 体験者と同じように
語ることはできないんですよ。
ただ 体験していない者は
体験していないなりに
自分の言葉で語ることが
できると思っています。
学んで
感じることができれば
受け継ぐこともできる
ってことですよね。
はい そう信じてます。
勉強になります。
正念場を迎える現場に密着します。
是非ご覧ください。
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