出典:EPGの番組情報

近畿推し!京都スペシャル「NAGAI~焼け野原のピンポン~」[字]

占領期の日本で開かれた幻のスポーツの祭典、マッカーサー杯。卓球界に革命を起こした謎のオールドルーキーの栄光と挫折とは。知られざる歴史秘話のスクープドキュメント。

詳細情報
番組内容
占領期の日本で開かれた幻のスポーツの祭典、マッカーサー杯。京都出身の謎のオールドルーキーが卓球界に革命を起こす。防空壕(ごう)の秘密基地で行われた執念のラケット開発。なぜ男の功績は歴史の闇に葬られたのか。京都の石油王といわれた一族の運命を背負った男の栄光と挫折とは。戦後まもなくの京都で繰り広げられた知られざる歴史秘話のスクープドキュメント
出演者
【語り】寺島進

ジャンル :
ニュース/報道 – ローカル・地域
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事

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キーワード出現数ベスト20

  1. 永井
  2. 達四郎
  3. 卓球
  4. ボール
  5. 回転
  6. 裏ラバー
  7. マッカーサー杯
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  9. 永井家
  10. 京都
  11. 南波
  12. ラバー
  13. 日本
  14. スポーツ
  15. ドライブ
  16. フィンガースピン
  17. マッカーサー元帥杯
  18. 革命
  19. 高速
  20. 勝利

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

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なぜ今、宇宙旅行なのか
その背景を解説します。

世界を変えるのは いつも
歴史に埋もれた 名もなき人々の執念だ。

今から72年前 焼け野原の日本で
卓球の革命が起こった。

しかし それは 歴史の闇に葬られ
人々の記憶から消えた。

ここに 戦後の日本を占領統治した

連合国軍最高司令官
ダグラス・マッカーサーの記念館がある。

2020年1月 書庫から
ある史料が発見された。

終戦直後の日本で撮られた 200枚に及ぶ

あるスポーツの祭典の写真だ。

その名も 「マッカーサー元帥杯」。

戦後まもない日本で開催された…

その祭典は行われた。

舞台は 皇居…

♬~

3日にわたって開かれた大会には

全国から 474人の選手が参加し

1万7, 000の観客が詰めかけた。

アメリカ軍ブラスバンドの盛大な演奏が
開会式を盛り上げた。

(歓声)

(実況)華々しく開幕しました
マッカーサー元帥杯。

この大会で 注目を集めた
一人の卓球選手がいる。

京都の永井と名古屋の門屋の
準決勝が行われています。

永井が 一方的なリードをとっております。

また1ポイント追加して
強烈なドライブ!

すい星のごとく現れた

31歳の無名の
オールドルーキー永井は

1回戦 2回戦と圧勝。

破竹の勢いを見せていた。

永井 ドライブを決めました。

猛烈な回転がかかっております。

まさに ダークホースの登場です。

そのラケットから繰り出される
高速の回転がかかったボールは

見る者の度肝を抜いた。

卓球は 19世紀 イギリス貴族の
娯楽として生まれたスポーツだ。

永井は その卓球を格闘技に変えた。

身長165センチの小柄な体を
いっぱいに使って

相手コートに 打球を打ち込むフォームは
世界に衝撃を与えた。

卓球に革命を起こした
無名のオールドルーキー永井とは

一体 何者なのか。

これ 京都府の体育協会史とか

日本卓球協会の創立80周年記念誌とか

京都府の体育協会史ですが…

永井の名前はなかったものの

マッカーサー杯の
ある成果が記されていた。

「昭和23年 用具革命は 京都に端を発し

世界制覇の一大要素となった」。

日本の卓球を 世界レベルに押し上げた…

一体 どんな関わりがあるのか。

≪はい。
すみません よろしくお願いします。

はい どうぞ。
すみません ありがとうございます。

永井と共に マッカーサー杯に
出ていた選手を訪ねた。

今井利夫さん 当時17歳。

永井のプレーする姿を
今も昨日のことのように覚えている。

高速の回転がかかったドライブを
繰り出した永井。

その秘密は ラケットにあったという。

ラケットの開発に情熱を注いだ
という永井。

防空ごうとして利用されていた
小学校の地下室を 練習場にしていた。

人目をはばかってか 弟と2人

深夜の時間帯に
特訓に明け暮れていたという永井。

当時 永井と一緒に卓球をしていた…

永井が ラケットの開発に
情熱を注いだ理由。

それは 体力が劣る30代の自分が

若い選手たちに対抗するための
「秘密兵器」の開発だった。

まず 着手したのは
ラケット自体の形を変えることだった。

手首の角度を固定するため
持ち手を2つに増やしたらどうか。

おわん形にして ボールを受け止めれば
回転をかけやすいのではないか。

しかし どれも使い物にならなかった。

そこで 今度は ラバーの素材を
変えてみることにした。

ゴムというゴムを
手当たりしだい 貼っていった。

長靴。

自転車のタイヤチューブ。

貼っては打ち また貼り替える。

毎晩 日付が変わるまでの試行錯誤は
4か月に及んだ。

そして 昭和23年正月
マッカーサー杯まで 残り半年。

永井は ある発見をする。

ラバーの表面が滑らかであるほど
強い回転がかかるのだ。

当時のラケットは 表面に粒のついた
凹凸のあるラバーだった。

ならば ラバーを
裏返せばいいのではないか。

すると…。

シュルシュルッと
高速の回転がかかったボールは

見たことがない軌道を描き

相手のコートに突き刺さった。

これ 僕 聞いたことあるんです。

後に「裏ラバー」と呼ばれる大発見が
なされた瞬間だった。

永井が発明した裏ラバーの威力とは
どれほどのものだったのか。

卓球メーカーの協力を得て 検証を行った。

当時 一般的だった
表ラバーと比較してみる。

裏ラバーの回転数は
表ラバーの2.6倍。

強力な前進回転を
生み出し

スピードのあるボール
となることが分かった。

秘密は ラバーとボールの接触面にある。

凹凸のない裏ラバーは 接触面積が広く

ボールを より強くこすることで

回転をかけることができる。

(歓声)

ついに始まりました
マッカーサー元帥杯 決勝でございます。

およそ 1, 000の観衆の拍手に迎えられて

今 注目の試合が
始まるところでございます。

迎えた決勝戦 第1セット。

永井は 裏ラバーという
秘密兵器を握りしめ

決戦の舞台に立った。

(笛の音)
第1ゲーム 京都の永井。

対する 東京の南波。

両者 真剣な表情で
コートに出場しております。

相手は 日本ランキング3位の強豪…

誰もが 永井の苦戦を予想していた。

しかし…。

京都の永井 強烈な打球を繰り出します。

また1ポイント追加しました。

1回 2回と ドライブをたたき込みます。

見事な回転がかかっております。

南波 このボールを取ることができません。

永井の裏ラバーから放たれる
高速の回転ドライブ。

(笛の音)

相手に10点差をつけ 21対11で

永井は 第1セットを奪い取った。

謎のオールドルーキーの快進撃に
会場は熱狂の渦に包まれた。

誰もが思った。

奴は 一体 何者なんだ?

永井の実家は 戦前から 京都で

大規模な石油会社を営んでいたという。

「永井商店」を掲げる
ガソリンスタンドをいくつも
経営していた。

アメリカやドイツなど
海外の企業とも 大口の取り引きを行う

関西でも指折りの商社だった。

父 瀬太郎は
一代で事業を築き上げ

「石油王」と呼ばれた人物。

京都をはじめ
大阪や名古屋にも
支店を広げ

高額納税者にも
名を連ねた。

この永井家の8人兄弟の
四男として生まれたのが

達四郎だった。

永井家の子孫が 今も京都市内で
暮らしていると聞き 訪ねた。

すみません よろしくお願いします。

達四郎の…

(取材者)
こんだけ たくさん史料残ってても
卓球に関する…。

しかし 不思議なことに
達四郎が卓球をやっていた痕跡は

何も残されていなかった。

(取材者)
達四郎さんが 何かスポーツとか
打ち込んでたりというのは?

何が?

四郎さんが 学生時代…。

そうやね。

幼い頃から きゃしゃで 内気な性格。

家に籠もって お絵描きにいそしむ
おとなしい少年だった。

学生時代の趣味は 音楽。

卓球はおろか スポーツとは無縁の
今で言う 草食系男子だった。

四男だった達四郎は 13歳の時

父の商売仲間だった

九州の中村家に 養子に出されていた。

(汽笛)

達四郎は 後に手記で
その時の心境を こう記している。

♬「かえりゃんせ かえりゃんせ」

それから18年。

31歳になった「中村」達四郎は

「永井」の姓を名乗り
マッカーサー杯の舞台に立っていた。

卓球選手の時だけは
「永井」を名乗った達四郎。

その理由は何だったのか。

いよいよ 最終第3セットが始まりました。

ダークホース 京都の永井。

高速回転を武器に 永井がこのまま
勝利を手にするのでしょうか。

決勝 セットカウント 1対1。

運命の最終セット。

(笛の音)

さすがは 強豪の南波。

永井の回転ボールを
次々と打ち返しております。

よく返しております。

1ポイントを追加しました
南波であります。

回転ドライブを打ち返すコツをつかまれ
永井は追い上げられていた。

またフォアのスマッシュ!
決まりました!

永井 どうこうすることができません。

追い詰められた永井は
意を決したように ある行動に出る。

サービスを出す永井の指が
ボールを強くはじいた。

ボールは 南波のラケットに当たると
大きく横にそれた。

相手に見えないように
指で直接ボールに回転をかける

「テーブルマジック」の異名を持つ
「フィンガースピン」。

永井が 奥の手として用意していた
もうひとつの奇襲戦法だった。

ボールの方向が読めない南波は
全く打ち返せず

永井は 次々と得点を重ねていく。

しかし…。

(笛の音)

審判の注意を促す笛が響きました。
永井に指導です。

強烈な変化を見せる
「フィンガースピン」は

海外では禁止されている技だった。

禁断の技に手を染めてまで

永井を勝利にかきたてたものとは
何だったのか。

取材を進めると 達四郎の遺品の中から
ヒントとなる資料が見つかった。

マッカーサー杯の半年前に
父 瀬太郎がしたためた手紙だ。

「宅の事を気にし
泣けてくる

毎日毎日
二百円三百と

金の事も請求を受け
ムチャクチャ」。

戦後の永井家は 栄華を極めた
戦前とはうってかわり

借金を背負うまでに困窮していた。

アメリカによる 石油の禁輸措置で

ガソリンスタンドの経営は破綻。

(砲撃音)

更に 昭和19年12月。

フィリピン レイテ島に出征した
達四郎の兄が戦死。

その陣頭指揮を執っていたのは…

永井家は 跡取りの大黒柱を失った。

戦争が終わるとすぐに 父 瀬太郎は

養子に出した達四郎を呼び戻した。

「達四郎が戻ってくれば 鬼に金棒」。

達四郎に託された 永井商店の復活。

しかし その道のりは過酷なものだった。

アメリカ進駐軍の兵士と笑顔で写る
永井家の人々。

借金をしてまでの
祇園での手厚い接待に観光案内。

兄の敵であり 永井家を絶望に追いやった
アメリカに

接近した理由は何だったのか。

石油史が専門の小嶌正稔さんは

永井家には やむにやまれぬ事情があった
と分析する。

戦後まもなく 石油は
GHQの全面統制下に置かれた。

進駐軍から 石油を
闇で横流ししてもらおうと

誰もが躍起になっていた。

マッカーサー杯で優勝し
「永井」の名を知らしめれば

家業を立て直し 家族を救うことができる。

達四郎は そう考えたのだろうか。

家の命運をかけて 「永井」の名を背負い
マッカーサー杯に挑んだ 達四郎。

その執念が 体に刻まれていた。

異常なまでに盛り上がった右肩。

元来スポーツとは無縁だった達四郎が

勝利のために 体型がゆがむほど
過酷な練習を積んでいた。

(歓声)

マッカーサー元帥杯 決勝戦。

予想以上の激戦となりました。

永井 審判の注意にもかかわらず

フィンガースピンを出し続けております。

どうしたことでしょう!

虚空を見つめるように
ただ ひたすら 球を追い続ける達四郎。

(笛の音)

永井 勝ちました。 優勝です。

会場は 称賛と非難が入り交じる
異様な空気に包まれた。

「永井と南波は
堂々大きな卓球を

見せてもらえる
ものと思ったが」。

日本卓球協会は
フィンガースピンの全面禁止を決定。

卓球界に 「裏ラバー」という革命を
もたらした 永井達四郎は

「勝利のためには手段を選ばない選手」
というレッテルを貼られ

歴史から消え去った。

しかし 永井が生み出した裏ラバーは
その後 大躍進を遂げていく。

永井が 直接指導した後輩が
世界選手権で優勝。

体力で劣る日本人の
国際舞台での活躍を後押しした。

現在 トップ選手の8割が
裏ラバーを使用。

毎秒120回転を生み出すまでになっている。

卓球選手を引退した後

達四郎は 家業の立て直しに奔走した。

永井商店は 今 関西を代表する
タクシー会社に名を変え

引き継がれている。

晩年は 町場の卓球場で

子どもたちを笑顔で見守っていた達四郎。

しかし ラケットを握ることは
一度もなかったという。

卓球界に 革命を起こし
消えていった 永井達四郎。

彼にとって 卓球とは何だったのか。

その胸の内を知る者はいない。

誰もが 暮らしやすい社会へ。

Source: https://dnptxt.com/feed

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